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「わたしの山怪」
三瓶こだま学園
山村留学指導員 浅平泰地
『山怪 山人が語る不思議な話』(田中康弘著)を読んだ。全国の山間地域を取材していた筆者が、各地で起こった奇怪な出来事についてとりまとめ出版した。この本は私にある不思議な体験を思い起こさせた。
私が山留生だったある日のこと。部活を終え、懐中電灯を片手にK兄と二人で夜道を歩いていた。里親農家までは1・2kmほどの道のり。毎日学校から帰ると振舞ってくれる餅が楽しみで、帰宅の足取りは軽やかだ。しかし道すがら、K兄の歩みが急に鈍くなった。あからさまにゆっくりと歩くK兄を振り返り、「何してるん、早く帰ろう」と声をかけ、ぱっと懐中電灯で顔を照らすと、いつもは聡明な目をしたK兄の顔が─......目は白目をむき、口元はだらしなくへらへらと薄笑いを浮かべていた。頭をふらふらと揺らし、まっすぐ歩くこともおぼつかない。
これはただ事ではない、と即座に感じた。心臓が掴まれるようにぎゅっと緊張した。しかし一人で逃げ帰るわけにもいかない。K兄の腕を掴み必死に声をかけながら、彼を引っ張ってうちへと向かった。「大丈夫だから、もうすぐ帰れるから!」......必死の励ましをよそにK兄は、もう一生帰れない......川に帰ろう......山に帰ろうと、不気味なことをつぶやいている。それでもめげずに励ましているうちに、私はあることを口にした。「帰ったら餅があるよ」。するとどうだろう。餅という言葉を聞いた途端、彼の表情がぱっと明るくなり、突然家に向かって一目散に走り始めたのだ。これにはさすがに面食らったが、私も彼を追って走る。今までのことが嘘のようにあっという間にうちについた。
彼を台所へ連れていくと、いつものように農家の母さんが餅をふるまってくれた。餅を食べながら、恐る恐るK兄のほうを見やると、そこにはすでにいつもの目つきを取り戻したK兄がいた。しかも先ほどまでのことは、いっさい覚えていないのだ。これが十数年たっても忘れもしない私の山怪である。